五月一四日(土)、被災障害者救援バザーは、お天気に恵まれ、汗ばむほどの陽気でたくさんの方がバザーにお越しくださいました。
ステージでは、演者の方々から被災地へのメッセージや歌を披露いただき、充実した内容でした。
朝から八〇人を超えるボランティアの方々にお手伝いいただき、無事にバザーを終えることができました。
以下、売上と救援金の報告です。
5月14日(土)
被災障害者救援バザー売上:2,193,480円
バザー参加団体からの支援金: 78,265円
当日会場の募金箱に集まった募金:20,258円
震災以降、豊能障害者労働センターに届けられた救援金:4,856,848円(5月16日現在)
あわせて7,148,851円を「ゆめ風基金」へ届けました。
震災以後「ゆめ風基金」に届けられた救援金 154,963,605円(6月4日現在)
届けた救援金 5月20日現在47,314,600円
全国からバザーのための品物おくってくれました。倉庫に、宅配がきました。スタッフがはこからあけておくりじょうをファイルしてメッセージを、書きました。はこの中からいろいろなものがありました。手紙もはいっています。よんでいくとあたたかい言葉がありました。服も本やタオルはいっていました。食べものもおくってくれてたりします。いっぷくして下さい、ってメッセージです。いろんな言葉を、おもって僕達に、メッセージがとどきます。
そして東北からもありました。だいじょうぶかな、どきどきしました。倉庫が品物でふえていました。一日でたくさんふえていくと、足ふみができないこともありました。一枚ずつ読んでいきました。手紙は、お宝ものです。被災障害者救援バザーを、ひらきました。
スタッフも汗をかきながらたくさんお客さんに、かってもらいたいと思いました。
被災障害者救援バザーを、やれてよかっ
た。いろいろな人の気持あつまってひろが
りました。皆で楽しくやりました。お客さ
んは、楽しくバザー品物を、もって帰って
いかれました。
本当に、五月一四日土ようびありがとう
ございました。しんぱいを、もらってあり
がとう。天気がよかった。ステージで笑顔
を、いっぱいでした。この笑顔を、東北に、
おくります。
五月十四日、豊能障害者労働センターさんのバザーに、参加させてもらいました。
かれこれ一〇回以上の参加になる恒例の春のバザー。今年は「被災障害者救援バザー」というタイトルがつけられました。
売上金の全額を、東日本大震災で被災した障害者の方々のために、ゆめ風基金さんに寄付するということを聞き、「なんて無謀!なんて素敵!」と、私の心は躍ったのでした。
今回ばかりでなく、いくつもの災害に寄付をし続けるとよのさん。その度私は、「いったい自分たちの生活は大丈夫なのか!?」と心配になってしまいます。そんな心配をよそに、やりきってしまうとよのさん。ほんとに大好きです!
自分がたいへんな時でさえ、誰かのために何かをする。
久しぶりに、一九九五年一月一八日の朝を思い出しました。私は、阪神淡路大震災の被災者です。私の住むマンションと隣のガソリンスタンドを残し、町内はすべて地震のあとの火事で燃えてしまいました。部屋のベランダに降りかかる火の粉を見ながら、なすすべもなく近くの小学校に避難しました。
翌朝、五時半頃だったと思います。なんと小学校で、おにぎりと毛布が配られたのです。茫然自失だった私は、「こんな時におにぎりにぎってくれる人がいるんだ!誰だろう?すごい。」と、ほんとに驚きました。
そして、その人の存在がうれしくて、とても力づけられました。
東日本大震災。何の資格も特技もない私に何ができるのだろうか、まして短い日程でと悩みましたが、ゴールデンウイークに、被災地障がい者センターいわてとみやぎに行ってきました。現地スタッフさんやボランティアさんのサポートであれば私にもできるかなと思い、思いきって行きました。
一日だけ、ボランティアの方々と、津波の被災地である大船渡市へ同行させてもらいました。避難所などで聞き取りをしたり、経過を確認したりしました。
被災と障害だけではなく、地域や家族、社会構造そのものの問題を突きつけられたようでもありました。神戸に戻ってからも、お話を伺った方々のその後が気になります。
今回は全国から、被災地からも、あたたかいメッセージとともにたくさんのバザー用品が届いたと聞きました。だれかの思いが、まただれかをつないで、愛のバトンリレーのようですね。
そんな関係をこれからもみなさんとともにつくっていきたいと思っています。また、震災の長い支援も心に決めています。
被災地の支援活動も六月に入って明らかに変化が起きています。
三.四月の緊急な支援活動と違い、今は仮設住宅への入居に伴って、生活を豊かにするための物資や生活支援などに代わってきました。
相談の質が変わったことを感じ、改めて阪神大震災の時の支援活動を思い出しました。
二年間の救援活動を終えた時、私はその時の支援活動を振り返って大きく四期に分けて活動が行われたことをまとめていました。 第一期は災害発生後から仮設住宅建設が始まるまでの、緊急な支援活動をおこなった時期。
第二期は仮設住宅建設が始まり、ほとんどの人が入居を終えた時期。
第三期は仮設住宅の入居が完了し、震災後一年目を迎えるまでの時期。 第四期は震災後一年目を迎えてから二年目を迎えるまでの一年間で、復興住宅へ避難者が移るまでの時期です。
第一期の特徴は避難所に避難している障がい者が少ない中で、在宅になっている人も含めて、障がい者の安否確認をどのようにして行うか、また出会った障がい者家庭に福祉機器、医療機器、生活物資などを届けるとともに、医療機関への送迎サービスや避難所などにヘルパー派遣などを行うもので、緊急な支援が必要で、対応のスピードが優先された時期です。
第二期になると仮設住宅の申請手続きや、仮設で必要なもの、またグループホームなどに閉じこもって居た人などから、買い物など外出サービスなどのニーズが出てきます。親戚の家に身を寄せていた人も、仮設住宅に移ってくるので、この時に新たな障がい者の方に出会うこともあります。
第三期になると障がい者の世帯を探すような安否確認はせず、第一期、第二期で出てきたニーズに応えるとともに、県外のボランティア支援から県内のボランティアにバトンタッチしていくことになります。また災害時の支援として何が足りなかったのかなど、検証をし、一定のまとめを一年目のまとめとしていきます。またイベントをはじめいろいろなプログラムを企画し、さまざまな障がい者の交流を深めていきます。
第四期は、支援金による福祉サービスから、自立支援法などによる福祉サービスに切り替えるため、事業所の立ち上げなどをおこない、一程度自立したサービスに切り替えていく時期です。復興について話し合い、どのようなまちづくりが必要かなどを考え、いろいろな企画を実施していきます。
宮城と岩手は現在第二期の支援活動が始まっています。岩手で約八〇件、宮城ではやく一五〇件の障害者世帯と出会うことが出来ました。
宮城県の中で活動をしていて感じるのは、仙台にはまだ福祉サービスを届ける基盤があるものの、北も南もサービスを提供する事業所が非常に少なく、選択肢がないこと、またホームヘルパーサービスなど、訪問系のサービスが極端に少ないことです。
さらに同じ宮城県沿岸部であっても、福祉基盤に相当の違いがあります。
実際に障がいを持つ子どもとお母さんが親せきの家に身を寄せたものの、その生活が長期になり、親戚からも辛い言葉をうけるようになってノイローゼになり入院した事例がありました。一ヶ月も風呂に入れていない人がありました。精神障がい者でありながら、体育館での避難生活が続いている人がいました。
相手が困っているということを言い易くする事、またその困っているにこたえられるような支援をこちらがすぐに提供できるように、日中だけでなく、寝泊りもできるような、「障がい者の駆け込み寺」が必要だと思いました。
仙台から離れた南の山元町や、北の南三陸・石巻などは被害が大きく、素早い対応が難しいため、その近くで物件を探しました。南は山元の隣にある亘理町に物件を見つけ、バリアフリー工事も完了し現在活動の準備を進めています。北は登米市に物件を見つけ、これから改装を行うところです。
北部については南三陸町で役所の人や障がい者関係団体が集まり、連携して動くことができるようになりました。すると、買い物行きたい、ヘルパーに入ってもらえないか、作業所までの送迎ができないかなど、いろいろな支援要請が増えています。スタッフの数にも限界があり、どこまで期待にこたえられるかわかりませんが、全国の支援を受けながら、地道な活動を続けていきたいと考えます。
岩手では私たちに先行して地元では知的障がい者福祉施設協会などが沿岸部の障がい者施設の調査をするとともに、社会福祉協議会を中心に被災地支援のための合同会議が続けられている状態でした。
現在は東日本大震災障がい者支援推進プラットフォームと名称が変わり、さまざまな団体がその会議に参加して支援方法について協力しています。私たちもそこへ出席し、連携した動きを作るようにしました。また岩手では相談支援業務を柱とし、県内の福祉関係者が動員され、独自に沿岸部の障害者世帯の調査を終えています。
私たちのところにも、相談支援員さんからの依頼が来るようになっていますが、一方で陸前高田のような被害の大きなところでも、相談員さんから「ゆめ風さんにつなぐような支援はありません」と言われてしまい、本当だろうかと戸惑っています。
これは岩手県全体として社会福祉基盤が弱く、とりわけ沿岸部ではやはりヘルパーサービスなど訪問系のサービスがほとんど存在しないことに原因があると考えています。
被害の小さかった盛岡市でも障がい者の人たちが町で出歩く姿をほとんど見かけることがありません。
ヘルパーを使って外出するなどと言った経験がないために、ヘルパーを使いたいという要求も出てこないのだと考えています。家族だけの支援による我慢が日常から存在していることに問題があると感じています。
障がい者支援においては災害による「困った」だけではなく、災害以前からの「困った」状況についても改善していきたいと考えています。
その意味でここに必要なのは、福祉の知識を持つ健常者だけではだめだ。障がい当事者こそ支援の担い手になって、岩手県の障がい者たちに声をかけていくべきだということを痛感しています。
現在JILを中心に障がい当事者を被災地に派遣してもらう話が進んでいます。被災地の状況は日々動いていきます。その中でボランティアの数もかなり変動してしまうので、安定した活動が出来ていないこともありますが、とりあえず息の長い支援活動今後も続けていきたいと考えています。
(二〇一一年五月十五日付けの中国新聞「今を読む」より)
一六年前の阪神大震災。私は被災地に行けない後ろめたさを感じながら地域の障害者団体とともに小さなコンサートを開き、「後方支援」をしていた。三月一一日、東日本大震災の発生を知った時、「今度こそ被災地へ」と思い立った。
折しも自治会活動の防災訓練を続けていた縁で日本赤十字社(日赤)島根県支部の要請を受け、四月初めの一週間、災害ボランティアとして宮城県に赴いた。
亘理町などで住宅に流れ込んだ土砂の除去、避難所のテント張りなど、日赤だからというわけではなく要請があれば何でもした。ただ、活動できる人は多いのに、多額の義援金と活動とが直結しないもどかしさもこの時に感じた。
そこで四月下旬、阪神大震災をきっかけに生まれたNPO法人・ゆめ風基金(大阪市)などが運営する「被災地障がい者センターいわて」の活動にあらためて参加した。ゆめ風基金は「一番困っているところにすばやく届ける」のがモットー。「ゆめ風ネットしまね」呼び掛け人の私は、幸い事務局の人たちと顔が見える間柄だった。
今回の活動は二、三人のグループで避難所や行政機関、福祉施設などを回って被災した障害者を探し、心配事、困りごとを聞き出して動くこと。
早い時期に入ったメンバーは寝袋で車中泊したり、雪で帰れず訪ねた施設に泊めてもらったりしたこともあったという。 私の役割は彼らをフォローし必要な物資を届ける、新たな課題を見つける、被災施設の詳しい調査を行う、といったことだった。電池、紙おむつから施設の修復資金まで、必要と判断すればすぐに届けるのである。
私が会った岩手県山田町の車いすの女性Kさん。兄と認知症の父親の三人暮らし。
自宅近くまで押し寄せた津波の直接の被害はなかったが、よく通っていた商店が流され、買い物に困っていた。私たちはこの家庭に医療器具や衣類、食料などを届け、通院や買い物の介助を続けている。
Kさんはいったん避難所に入ったが、障害者の居場所はなく、「あなたの来るところじゃない」という言葉まで投げつけられる。こんな体になった自分が悪いと、悔しい思いで自宅に帰った。死にたいとも思った。
そうした話をじっくり聞くことも私たちの仕事だ。
同県大船渡市の精神障害のある男性Rさんは八カ月前に県外から転居したばかり。直接の被害はなかったが、津波で病院が被災したため障害者手帳交付に必要な診断書をもらえず、年金が支給されていない間接的被災者だ。「なぜ今、私がこの町で・・・」と思いながらも行政などの窓口を回り、生活保護や生活福祉資金貸し付けなどの道筋をつけた。「つなぎ役」が私の仕事だと思ったからだ。
そして次の町へカーナビを頼りに走るが、浸水でルート通り進めず、突然、がれきの中でナビが終了。
目的の同県陸前高田市役所は倒壊していた。近くを歩く人に道を尋ねると、まだ見つからない家族を捜していた。私たちは言葉を失う・・・。
しかし、同じ町で早くも将来に向けて動き始めた人たちもいた。
被災した障害者を受け入れ、グループホームをつくりたいという。震災を教訓にソーラーと井戸水を組み合わせた電力を使う、と夢は広がる。自らも母親を失い、ようやく火葬を済ませたという男性も休みなく働いている。
私たちはつらく厳しい状況を目にしてきたけれども、温かい心、熱い思いにもたくさん出会うことができた。単なる「復興」ではなく、障害者が自立して生きるまちづくりへ、応援したい。
そしてボランティアはどこでどう動いていても、主役ではない。
それだけは忘れず、できることをできるところで、力まず続けたいものだ。
昔からわたしたちのカレンダーのお客様で、東京で被災地のボランティア活動をされておられる高瀬さんという方からご連絡をいただきました。避難所や仮設住宅にカレンダーがなくて、困っているということで、もしカレンダーが残っていたら送ってもらえないかというお話でした。
まだ棚に残っているカレンダーが被災地で役立つのなら、ぜひ、お使いいただきたいと思い、山形県、福島県の何箇所かの避難所にカレンダーを送らせていただきました。
福島県の小名浜地区ボランティアセンターを立ち上げられたNPO法人の方からお手紙をいただきましたので、ご紹介します。
拝啓
この度は、東日本大震災に対し多大なご支援と、ご協力、そして温かい励ましのメッセージを賜り深く感謝申し上げます。
お蔭様で四月二十一日に小名浜地区ボランティアセンターを立ち上げることができました。
毎日、全国から多くのボランティアさんが駆けつけ、厳しい環境のなか現場で支援活動に取り組んで下さっております。そして、センターには毎日真心の支援品が届き、ニーズに応じて物資の配布も順調に進んでおります。
大震災と津波、原発の風評被害を受けたいわきの人々の苦悩は極限に達していますが、センターが、まず元気に頑張っていくことが地域の復興に繋がると信じ、スタッフ一同懸命に取り組んでおります。
今後ともご支援ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
敬具
平成二十三年六月五日
特定非営利活動法人ザ・ピープル理事長 吉田 恵美子
大変な中、お便りをありがとうございました。
目に見えない原発の不安、大切な人や家、ものを亡くされた悲しみは、まだまだ癒えることなく続いていることとお察しします。世の中が、「復興」モードになったとしても、決して忘れることなく、思い続け、出来る形で支援を続けていきたいと思います。(編集部)
はじめまして。先月より新たに専従となりました寺村素之です。
世の中が大変な時期、微力ながらコツコツと頑張っていきたいと思います。
また、三月一一日の震災の後、とにかく何か書き残しておかないという思いで書いた詩に、加納浩美さんが曲をつけてくださいました。
そして五月一四日の被災障害者救援バザーで披露されました。
以下、復興の思いを込めてつくられた寺村さんの詩です。
乾いた風に吹かれて
いきどおりや不条理を
くずかごに放り込む
背中の荷物が少し軽くなる事を
感じていた
形のあるものだけが決してこの
世のすべてじゃない
欠けた月の明かりに照らされ
そんな事も少しずつ
わかってきた
あきらめるのはまだ先にしよう
静かなる情熱を今胸に…
流れる涙の訳はそれぞれで
決して悲しい事ばかりじゃない
から
ひとしずく見せるなら
誰よりも美しい涙を…
はかり知れない傷跡も
やがてはるか長い時をかけ
記憶の片すみに消えるだろう
あの空に誰もが祈っている
帰らぬものたちよ
どうか永遠にこの胸に生き続け
てください・・・
五月二八日(土)、豊能障害者労働センター主催「着物市」を箕面市立メイプルホールにて開催しました。
朝からあいにくの雨で、例年よりもお客様は少なかったのですが、ボランティアの方々にも支えられ、無事に終えることが出来ました。
雨の中お越しくださった方々、お手伝いくださった皆さん、大切な着物をご提供くださった方々、本当にありがとうございました。
5月28日着物市売上は、514,250円でした。
暑くなってきました。夏の贈り物に箕面、北摂の魅力ある商品をぜひご利用ください。
ご希望の方には、カラーのチラシを無料
でお送りしますので、ご連絡ください。
〒562-0001 大阪府箕面市箕面4-8-39
TEL/FAX 072-724-3425
受付時間:月〜金 10:00 〜 17:00
ボクの少年期、大阪市内のほぼ真ん中(天王寺区餌差町、いまは中央区)あたりには焼跡の原っぱ(第二次世界大戦による)があちこちにあった。ボクが暮らしていた寮(オヤジの勤め先の社宅)の裏にもけっこう広い焼跡と用水溜池があった。
ボクたち子どもは学校から帰るとランドセルを家の中に放り込んで、日が暮れるまで焼跡の原っぱで三塁のない「三角べース」と言っていた野球、そしてオニヤンマやギンヤンマのトンボ採りに夢中だった。
まだ松葉杖がうまく使いこなせなかったボクは、激しく動かなければならない遊ぶ時には地面を這い回っていた。日が暮れて家に帰る頃には全身ドロだらけ、そんな格好をお袋は殊の外よろこんでくれた。おそらく足の不自由な息子が元気に遊んでいる姿が何よりもうれしかったのだと想う。
その頃の思い出、走れないボクのために仲間たちがアイディアを出し合ってくれた「三角べースのルールづくり」やトンボ採りのあれこれを記した「雨あがりのギンヤンマたち」は、のちに小・中学校の副読本になったり、ボクの著作の一つになって多くの人たちに読んでもらった。
ボクは名人とまでは言わないが、けっこうトンボ採りは得意だった。
空高く飛んでくるヤンマを採るのだが、道具は簡単で五〇.六〇センチぐらいの糸をお袋からもらい、その両端に小さな重し(ビス・ナットなどがいい)を付けるだけ。その簡単な道具を空に向かって投げ放つと、ヤンマは両端の小さな重しを虫と思って食べにくる。が、食べられないと気づいた時はもう遅い。糸がヤンマの羽に絡んで、飛べなくなったヤンマはカラからと落ちてくる、按配。
かようにトンボ採りは得意だったが、蝶を採るのはヘタだった。
だいたい蝶は柔らかな大きな輪の網を構えていて、花に寄って来るのをそっと採るのだが、よく空振りになった。どうも飛ぶ方向が掴めなかった。まるで牛若丸のように、「ここと思えば、またあちら。ツバメのような早技に、鬼の弁慶あやまった」と言う感じなのだ。いや少し違う。
蝶の飛び方は、「ここと想えば、またあちら」なのだが、「ツバメのような早技」というイメージではなく、スローなのだがひらひらと舞い、こちらに来ると思うやひらりとかわされる。直角に下りて地面スレスレに逃げられる。その動きはランダムで、まったく予測できない。輪の大きな網が何度も何度も空振りのコンチクショウになるのだった。
この蝶の飛び方の軌跡は、いくつかの大学で研究テーマになっているそうで、それほど掴みどころのないものらしい。簡単に説明してしまうと、蝶が敵から身を守るための本能という説もあるそうだが、それでは身も蓋もない。そう思うほど魅力的なのだ。ボクはこの、ひらひらスイーィ、というスロー・クイックな飛び方にしびれ、憧れてしまう。
とくに惹かれるのは、スローな感じなのに先の方向がまったく予測できないところ。
予測できないのはいい。まるでゲリラ、というよりアメーバのよう。
そうそう、思い出した。
一九八一年は国際障害者年という年だったが(あーもう三〇年も前のことだったか)、そのことをボクが知ったのは二年前の一九七九年で、国際的な活動をしていた障害者たちはもっと以前に知っていたかもしれないが、ボクは国連が勝手に決めた、という感じだった。その思いもあながち間違っていなかったようで、国連での協議が進む中で「障害者のための○○年」だったものが、「障害者による○○年」に変更された、と聞いている。
すぐに国際的な『ボクたちの』年がやってくる。
さて、どうしようか、ということになった。日本の多くの障害者にとって寝耳に水のこと。前もって相談されたわけではない。とうぜん無視することもできる。だが、日本の障害者の多くが無視したところで世界規模で『ボクたちの』年がくるわけで、徹底的な無視などできっこない。ある障害者たちは「国際障害者年をぶっ飛ばせ!」とぶち上げた。
ボクたちの仲間はどう迎えていいか迷いに迷った。あと一年に迫って、破れかぶれ気分で「われらの手で創造しよう○○年」という方向になった。「ちがうことこそ ばんざい」を合言葉に障害者の手記を集めた本と詩をもとにしたレコードを世に問うた。そのキャンペーンで使ったシンボルマークがアメーバだったのだ。どのようにでも形を変えて、どんなところでも侵入していく……そんなアメーバのたくましさに障害者像を託したのだ。
予測できない飛び方をする蝶、どこから現れるか見当がつかないゲリラ、どんなところでも形を変えて侵入するアメーバ。
この三つに共通しているのは権力者がもっとも嫌い恐れるものだ、ということ。これらにボクが憧れて、たまらなく魅力を感じ、心惹かれるのは、小さな存在ながら時の権力者を震え上がらせる力を秘めているところにありそうだ。(つづく)
1937年大阪市生まれ。
1才のころポリオにかかる。
6才になり、母におぶわれて小学校に出向くも「空襲のとき危ないから」と入学を拒否される。
敗戦後の9才に、小学1年生になる。
2年生の夏休み、松葉づえを覚える。
高校時代は松葉づえ歩行、免許皆伝の腕前。それから60才まで松葉づえ人生。
身体のバランスが危うくなって車いすに。
いまは電動車いす歴12年、初心者マークがとれて油断大敵のころ。
参加費無料
2011年10月4日(火)から2011年10月9日(日)
箕面市立メイプルホール 8日(土)にミニバザーあり。
10時から19時(申請予定)
2011年11月7日(月)から2011年11月13日(日)
箕面市市民活動センター ロビー 10時から19時(申請予定)
★日時、場所については変更になる場合があります。
ご注文・お問い合わせは
豊能障害者労働センター
〒562-0013?大阪府箕面市坊島1-7-17
TEL:072-724-0324
FAX:072-724-2395
E-mail:info@tumiki.com
積木屋 http://www.tumiki.com/